解雇→就職活動中

・・・どこから話せばいいのか。先日、人生初めての解雇という体験を致しまして。
と言っても、私が何か職務違反を犯してとか怠慢な勤務態度でクビになったわけではないんですが、
要は、とっても合わない上司に当たってしまい、それに対処し切れなかったという・・・。
これからどうしようとか情けないとか、まぁ一通り色々考えても見たんですが、でも、私本当にこの上司の下で働いていた1年半、学べることもあったけれど、彼女と関わる部分は辛いことだらけだったので、この人の下にいる限り、彼女は延々と私を排除する為に色んな手段を使うだろうということもあり、形はどうであれ、あの場を離れる事ができたことはよかったと今は思えています。

ここから先は、解雇までの経緯に若干愚痴っぽさも漂うかもしれませんので、読みたい方だけどうぞ・・・。




そもそも、上司が一体何故私を嫌っていたか。一番は、私が日本語スキルを買われての採用だったことでした。日本のクライアントも多く、東京オフィスもあるのですが、本社対応になることも多く、アメリカ人PMも多く担当していたこともあり、翻訳会社から上がってきた日本語翻訳されたドキュメントのレビューや、研究会資料の作成などは、自分が関わるプロジェクト以外からも多く依頼があり、これは上司の更に上のラインを通って私に直接おろされる事も多くありました。
産休後は、東京オフィスのマネージャーのプロジェクトにも付けられた為、他のチームメンバーは全て彼女のプロジェクトだけを手伝っているのに、私だけが、複数マネージャー付きになってしまっていました。
(これも彼女の上のディレクター権限の意向・・・)


彼女も表向きは私のこの状況について文句は言えないのですが、自分のプロジェクトもきちんとやってくれないと困ると言うわけです。もちろん、私は彼女のプロジェクトについてもきちんと仕事をしていましたが、
どんどん要求はエスカレートして、絶対に自分のプロジェクトを最優先でやらないと駄目だとまで言い出す始末で、最終的な私への評価の多くは、「何月何日、私のプロジェクトのこの仕事を後回しにした(期日はまだ先のはずなのに)。どれだけ重要なプロジェクトであるのか理解していない」という主旨のものでした。
優先順位を彼女の思うように付けられないという評価をし、「それならばどういう対応が好ましいのかアドバイスしてくれ」とお願いすると「他のプロジェクトに30分以上費やす場合は自分に全てお伺いを立てろ」と言うので、逐一報告すると、次の評価は「自分のところに来ないと優先順位が付けられない」と言い出し、私が自分で判断して仕事をすると、「自分に相談すべきである」と言い出すので、もう手が付けられませんでした。


この上司、「私のことを個人的に好きではないんだろうなぁ」と言う事は伝わっていましたが、ここ数ヶ月はとにかくでっち上げてでも私のミスにしようと必死でしたので、どんないちゃもんでもとりあえず対応して次には指摘された部分をクリアにして提出すると、次には自分の前のコメントを撤回する、絶対に改善されたことは認めない、こちらから指摘をするとうやむやにする。ミスとして私に指摘したい部分を明文化して欲しいと促すと放置して、次回の面談時は私は改善してないというフィードバックをよこす・・・とまぁひどいものでした。まさか、ここまで個人的な好き嫌いを全面に押し出してくるとは、と思いましたが、絶対に認めたくないんだということはよく判りましたし、私もこの職場はそう長くはないけれど、漠然と2年目が過ぎたらまた転職かなぁと考えていました。


会社としては、もう私を解雇するという意向は1月初旬に決まっていたのだと思いますが、法的に不当な解雇をしない為に、証拠作りとしての「1ヶ月間の改善期間」を設定しての通達でした。
この時、私にはいくつかの選択肢がありました。

1)絶対にこの一ヶ月間で見直しをしてくれることは無いと私は確信していましたので、クビになる前に辞表を提出する→プライドは保てるかもしれないけれど、失業保険(Unemployment)は自主退職なので対象外

2)この1ヶ月で就職先を探して、1ヶ月経つ前に辞表提出→理想だったが通達時から就職活動を始めても期限の1ヶ月までに内定する確立は低い

3)この1ヶ月、難癖つけられた部分を全てクリアして、仕事を継続させる→上司に絶対その意志は無いことは明確

4)この1ヶ月、難癖つけられた部分を全てクリアして、解雇される→プライドはずたずただけど、失業保険はもらえる。

結局私は最後の選択肢をとったわけですが、もちろん就職活動も通達があってからすぐに始めましたが、期日までには決まりませんでした。


仕事も、全て期日前に終わらせ、毎度つけられる言いがかりに近い指摘も全てにっこり引き受けて次の提出には全て言われた通りに直して持って行き、同じ件では指摘されないように、先手も打ってやりましたよ。
でも、結局はポジティブなコメントは引き出せず、最後まで言いがかりのようなコメントばかりを突きつけられ、(しかも以前、改善したと認めた件面をまた引っ張り出してくる始末、もう手に負えない)1ヶ月が経ち、解雇になったわけです。


会社としては、私のように何も悪いことをしていない人間を解雇するところは、なるべく他の社員に見せたくないのだと思うので、HRの担当者がお昼前に私を呼んで通達をし帰宅させる段になって、
「今から机に私物を取りに行く?それなら、私が一緒について行って、ホブをその場で返却して貰うことになるけれど。それとも後から取りに戻ってきてもいいけど。」(明らかに後から来いと言いたげ)
でも、私は別に悪いことしてるわけでもないし、デスクの私物もほとんど引き上げていたので、
「特にそんなに物も無いし、私のバッグとコートだけなんで、取りに行きますので、ご一緒にどうぞ♪」
と、すたすたと席に戻り、荷物をまとめて去るまで5分。それでもHRのおばちゃんは、立ち会わなければならないし、でも他の社員にこんなところ見られたくないし・・・とやきもきしていました。
解雇なので、仲の良かった同僚や他のチームのメンバーに挨拶できないまま去るのが辛かったですが、
仲良しの子にあとから私の代理でメールを送ってもらいました。

幸い本当に自分のチーム以外の人は本当にいい人たちばかりで(苦笑)、リファランスになってもいいよ、という人や、自分の転職時に使ったヘッドハンターを使っていいよとか、この競合会社で募集があると思うとか・・・様々な申し出を、事情を知った人たちが電話やメールでくれたことも嬉しかったです。


こうして人生初めての解雇を経験したわけですが、解雇された日より、1月初旬に1ヶ月前通達を出された日の方がショックでした。仕事を失って、収入がなくなるので、本当はこんなことを言ったら怒られるかもしれませんが、彼女ともう会わなくていいことにほっとしている自分も居ます。


自分が思った方向とは少し違いますが、生後3ヶ月から復職していましたので半年振りに息子としばらく家で過ごすことが出来る事もプラスと考えて、しばらく在宅専業主婦兼就職活動に励みます。

今年こそは・・・・・のNew Year Resolution

新年あけましておめでとうございます。
昨年中は様々な生活の変化もあり、なかなか更新できずにいたこのブログ、今年こそはもっと頻繁に更新できるよう、生活のリズムを整えて、自分の時間を確保して、また自分のアンテナを伸ばして、いろいろなことに目を向けて行けたらと思います。

クリスマスで全力を出し切る(笑)アメリカ人、年越しはいたって静かなもので、
仕事も大晦日まで普通に仕事して、お休みは元旦のみという会社がほとんどです。
私は今回は、大晦日と2日に休みを取ったのでその前の週末から5連休にして、少しのんびりすることにしました。
NYから来た新婚の友人夫婦が遊びに来てくれたり、夫の祖父の90歳の誕生日のお祝いをしたり、前半は予定もあって、
充実していましたが、年越しは家で相方とシャンパンを飲みながらトランプをして(笑)カウントダウンを待って、元旦も普段なら相方の実家に行って食べるローストポークザワークラウト煮込み(ドイツ系の新年の伝統的な食事)を、初めて自宅で作りました。
思えば、前の家では毎年カウントダウンパーティを開いたり、食事に出かけたりしていましたし、今の家に来てからは、旅行に行ったり、相方の実家に泊まったりしていたので、実は何も予定を入れずに家族だけですごした大晦日アメリカに来て初めてでした。


アメリカ人も新年の誓いを立てる人は多く、禁煙する人やダイエットを宣言する人もいます。
会社でも、「タイムシートを期日どおりに入力して提出する」という目標を、マネジメントから社員全員に言い渡され、アウトルックのカレンダーに強制的にリマインダーを入れられた年もありました。


私も今年の目標を立てなくてはならないのですが、元旦の今日思いつくのは、
1. ダイエット(産前体重に戻りたいっ)
2.断捨離
3.ブログ更新
4.英語力アップ(渡米10年目の目標とは思えない)
5.手作りコスメ
6.息子に本の読み聞かせ
7. 仕事力アップ

と、書き出したものの、わりと地味な目標(笑)

ま、途中で方向転換する事もあるかもしれないし〜と、はなから意志の弱そうなことを考えつつ、
この方向性で頑張ってみます☆

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

よく寝る子育て

子供が出来て、復職してから、ご挨拶代わりくらい同僚から言われることは、
「大丈夫?ちゃんと眠れてる?大変でしょう?」
だったんですが、ありがたいことに、
息子は今のところよく寝る子で、朝も起こすまで起きないなんてことがままあるくらいです。
生後2ヵ月半から、通して7時間以上眠ってくれることが多くなり、
3ヶ月で、8時間以上、一度もおきずに眠る日がほとんどになりました。
これは、先輩ママさんから頂いた数点のアドバイスを元に、私なりに実行してみた結果なのですが、
せっかくなので、ここでそのアドバイスをご紹介しようと思います。


元々は短時間睡眠女の私もアメリカに来て睡眠時間が増えましたが、夫は超眠り男で、しかも
我が家は夫が保育園への送りをしてくれているので、朝は私は家をそのまま出るだけなんですが、
息子があまりに起きないので、このまま会えずに出勤するのは悲しすぎると、私が起こしてしまうくらいです。、
よく寝た日は、朝もご機嫌で、覗きにいったらベッドで笑顔でお出迎えしてくれます。
夫とは、睡眠時間は夫、寝起きは私譲りと話しています(笑)(夫は朝苦手で、超不機嫌なため)


もちろん、これは最初からこんな睡眠サイクルだったわけではなく、
ご他聞に漏れず、最初の4週間くらいは、2時間おき授乳でしたし、
1日が、授乳とおむつ交換で終わっていく日々が続きましたし、昼夜逆転も経験しました。


先輩のママさんからは、寝る習慣づけの為に、毎日めげずに決まったスケジュールを続けて、
同じ時間にベッドに寝かせることをするようにとアドバイスされていたので、
それを生後5週目から実行してみました。

1.自分のクリブで眠らせる
これは、アメリカの住居環境だから出来たことでもあるのだと思いますが、
我が家は子供部屋は私達の寝室とは別にしていて、生後1ヶ月から、自分の部屋で寝かせつけをするようにしました。
モニターを付けているので、息子のふにゃふにゃした寝言でもすぐに飛び起きて様子を見に行きました。
確かに、一人ぼっちで寝かせて、寂しい思いをさせるのではないか?と心配にもなりましたし、
一回一回起きて、ロッキングチェアーで授乳して、寝付くまであやして、
ベビーベッドに寝かせて自分のベッドに戻るというのは、面倒だし、いっそのこと自分のベッドに連れて行って、
添い寝したい!と何度も思いましたが、自分のベッドを覚えて貰わなくちゃ、という気持ちで、
心を鬼にして、私の寝室と息子の部屋を行き来していました。
生後3ヶ月くらいまでは、お昼寝は別のプレイヤードでさせて、ベッドは夜に休む場所ということを癖付けできるように心がけました。


2.夜の儀式を作る
先輩ママからは、夜の儀式をすることで、赤ちゃんの生活のリズムを作るように促すことをアドバイスされました。
お風呂の時間は毎日同じにして、、出来れば薄暗くして毎日同じ部屋で(子供部屋がベスト)たっぷりと授乳して、
同じ時間にベッドに寝かせる、ということをとにかく繰り返しました。


3.お部屋にアロマ
子供が産まれてから子供部屋には、毎晩、「よく寝てくれますように・・」とラベンダーの芳香浴をして、ラベンダーのアイピローを枕元に置いています。デイケア(保育園)で、風邪をもらって、鼻がずーるずるになってしまってからはユーカリを足して、ラベンダーとティーツリーのアルコールスプレーを作って、拭き掃除が日課になりました。

4.4ヶ月過ぎくらいからは、泣いたら15分待ってみる
これは、小児科の先生からのアドバイスですが、夜泣いたら、とりあえずモニターを一旦消して、10-15分待って、モニターを付けて、様子を見たほうがいいと言われました。
これは、ちょっとぐずっても、自分で自分を落ち着けてまた寝てしまうこともあるからなのだそうです。
段々に、ぐずり程度の時は待ってみて、ギャン泣きの時は部屋に行ってみるなど、自分なりの線引きが出来るようになりました。


よく言われる、二時間おき授乳の生後1−2ヶ月あたりは、神頼み程度、気休め程度と思っていましたが、
多分、これらの夜の儀式がよく効いたと思われ 2ヶ月過ぎたあたりから、まとまった時間に寝てくれることが増えて、
復職する前には、9−10時間コンスタントに寝てくれるようになりました。


お腹の中に居る頃から、体内時計がしっかりした子だったので、(夕方4時55分(終業前)になると、お腹をどこどこ蹴るとか)こうしたスケジュール法が肌にあったのか、よく寝てくれて助かっています。
うちの母からは、最初は「かわいそうに、きっと親を気遣ってくれてるのよ!」と言われてました。
そうなのかなぁ、一人で眠らせて無理させてるんだろうか?と心配になったこともあります。
実際、添い寝していたら、多分、もっと細かい子供のサインに反応して対処してあげていたと思うので、
添い寝していないから、かまわれない子供になってしまうのかと思った時期もありますが、息子が今のところ、気持ちよく眠ってくれて、私も、息子が起きてしまった時は今まで問題なく対処できているのでよしとしようと思っています。


こんな感じですが、もしもお子さんがあまり寝てくれないなど、お悩みの方がいらっしゃったら、
参考程度にはなればいいなと思って書きました。

41歳になりました

あっという間に41歳になってしまいました。
この一年は、妊娠→出産→子育て→復職→兼業母生活と、まぁ盛りだくさんでした。
生まれた長男も、生後6ヶ月、すくすく成長しています。
私も、今までとは違う仕事へのスタンス、子供が産まれてからの生活の変化、優先順位の変動、夫との関係の変化・・・様々な変化を経て何とか今に至っています。


こうして少しブログを書く時間も出来そうなので、またブログを再開しようと思います。
あまり器用ではない私が、ディンクス生活から一転40代の兼業ママデビューという人生の一大事から、どう成長できるのか、ちまちまと思ったことを書き連ねていこうと思います。
子育ての事ももちろんですが、自分のアンテナをきちんと伸ばしてほかの事にも目を向ける余裕が出ますように・・。

いよいよ出産

無痛分娩のデメリットとしてよく言われるのが、無痛ゆえいきむ方法やタイミングがわかりづらいと聞いたことがあったのですが、
確かに、痛みが無い=下半身の感覚が無いので、陣痛が来ているかどうかはモニターの波を見て判断して、
助産婦さんが教えてくれます。
いきむタイミングや、いきむ体勢については助産師さんがことこまかに説明してくれ、
大体3カウントで吸って5カウントで息を吐ききる感じでいきむように指導されました。
その際、顎を引いて、おへそを覗き込むような気持ちで、吐くように言われてやっていたら、
「今のプッシュ、いいよっ!」と言われた時のいきみは、ピラティスで腹筋を立てる呼吸をした時でした。
一度、「いいイキミ」が掴めると、徐々にその「いいイキミ」が増えてきて、赤ちゃんが出て来やすくなってきます。
いきむこと1時間、いよいよ産婦人科医の登場。
ベッドも高くリフトされ、いきむこと10分くらいで、なにやら先生がもぞもぞ動いているのですが、
私のところからは何をしているかは見えず、とりあえず言われた通りにプッシュ続行。
実はへその緒が胎児の首に巻き付いていて、出てきたいのに押し戻されてしまってたらしいということが判明して、
先生は、へその緒をばちばちっと切って、その後吸引もしたらしいというのは後から聞きました。
なので、相方は結局立ち会ったものの、へその緒カットなどは出来なかったそうです(苦笑)


6時15分、病院到着から8時間、お産開始から1時間15分で無事男の子が誕生しました。
産まれてすぐ、赤ちゃんは体重を量ったり産湯できれいにしてもらいに、部屋のベッドと反対側のコーナーでお世話されてから、
私と対面になるわけですが、取り上げられたわが子を見て、義母は、
「きゃ〜えくぼあるっこれ、絶対私からの遺伝よっ」←やたら嬉しいらしい。
ということで、私が対面するより前に義母の方が先にコンタクトしてしまったらしく大騒ぎでした(苦笑)


妊娠糖尿病や高齢出産、色々心配事が多い妊娠だとドクターはやきもきしていたようですが、
結果としてはすこぶる健康でとてもかわいい赤ちゃんがやってきました。


お腹の中に居た子が、今ぽんと目の前に現れて、とても不思議な気持ちでしたが、
小さくて壊れそうだけど、確かに存在する命がそこにありました。
今までは、私のお腹の中ですくすく育っていたのが、今度は外の世界の荒波にもまれて生きていくのかと思うと、
「このまま赤ちゃんで居て欲しい」という叶わぬ妄想すら思ったりもしました(苦笑)
それと同時に、私の一挙手一投足がこの子供の将来に関わることを思うと、その責任の重さをひしひし感じてしまったり、
タダでさえ妊娠が終わって、子育てモードに切り替えるのに大変な時なのに、
短時間で頭の中でいろんなことが駆け巡りました。


そんなこんなで、何とか私も出産することができました。

出産前

<2012/4/19-20の回想>

産休1日目は、早速仲良しの同僚2人と女子会ディナーをする予定だったので、
家で日中はうだうだし、夕方のお出かけに向けてのんびり準備。
この同僚の子達は、いずれも私より年下だけど、先輩ママで、チームやセクションが違うけれど、
白人率が高い今の会社で数少ないアジア人でもある。(カンボジアアメリカ人と中国人)
入社時期も私とそう変わらないこともあり、同期みたいな関係。
今回も会社でのベビーシャワーを仕切ってくれたので、そのお礼ディナーに誘っていて、
子持ちの二人が、お子さんのお世話を旦那様に頼んで出てきてもらえることになったわけです。

そんな彼女達と、家の近くの「和食・タイ料理・中華」のお店でご飯を食べながらゆっくりおしゃべりをしました。
いつもは一緒にご飯を食べれるのはランチで、なかなかゆっくり話すこともできずにいたのですが、
やっと女子会実現!いい気分で帰宅したら、一昨日のようなあの痛みがずずーんとお腹を襲ってきました。
重い生理痛のような痛みから、今回は徐々に痛みも増してきて前の偽陣痛よりもっとはっきり痛みの波が判ります。
前駆陣痛の時には手書きで時間を書き留めて、間隔を測っていたのですが、段々字はよれよれになるし、
書き忘れがあったりもしたので、先日見つけたI-podの妊娠中用のアプリを使って、今回は陣痛の間隔を計りました。
結果として、痛くなったらクリック、治まったらクリックという単純な動作なので、
段々痛みがひどくなったら、相方に「ボタンクリックして〜っ!」と頼めたのもよかった(笑)

Sprout

前回のように偽陣痛で病院に行って無駄足を踏むのはイヤだったので、本当だと確信するまで病院は行かないと決めていたのですが、
そんなこんなで夜中ずっと痛みが徐々に強くなるのを感じながら朝を迎え、
いよいよ、痛みも激しくなってきて、これは本物?と思えたので相方に病院に行きたいと伝えて、車に乗り込みました。


結局、通っていた産婦人科医が所属する病院に登録し直したので、
私が予め見学ツアーに参加していた病院とは別の病院へ行ったのですが、結果としてはちゃんとLDR(陣痛→出産→予後を同室で行う。通常個室)だったし、
出産を手伝ってくれた助産婦も担当ナースも良い人たちだったので、この病院でも満足しました。


病院へ到着したのが10:30am。登録もスムーズで、広いLDRにすぐ通されて基本的な質問をされながらモニターつけて、
点滴つけて・・・・と、着々と出産準備モードが出来上がっていく・・・とにかくお腹の痛みは増すばかりだし、
言われたことをこなすのが精一杯(苦笑)
ここでされる質問は、誕生日や胎児の週数の他に、35週くらいに産婦人科の検診でされた膣内の組織検査の結果を答えます(陽性か陰性か)。
これは陽性の場合は、出産時に赤ちゃんにお母さんの膣内の病気が感染する可能性があるので抗生物質を出産時にしようしなくてはならないからだそうです。
ちなみに私は陰性だったので特に何の手配もありませんでした。


あっという間に、背中すーすーのフリーサイズの患者服を着て、モニターには陣痛の波がはっきり現れて内診された結果、
11:00過ぎの時点で子宮口は既に4cmまで開いていました。無事、陣痛は本物だとわかった辺りで、
痛みはどんどん激しくなり、波が来ると痛みもがいている私を見て、
12時過ぎ、背中をさすってくれていた相方が
「もう、頑張ったし十分だから、麻酔お願いします」
と私より先にお願いしていた・・・。
よっぽど見てるのが辛かったらしい。
(無痛分娩用のEpidural(硬膜外麻酔)は本人がGoサインを出す)
脊髄に麻酔を入れて部分的に痛みを無くし、その後誘発剤(ピトシン)で陣痛を進めて出産するというプランを読み上げられ、
麻酔医が登場したのですが、この先生、メキシコ系で訛りが激しく、
ただでさえ痛みで頭もうろうとしている私には、彼の言ってることが3割くらいしかわからなかったような気すらするのですが、
担当ナースは、噛み砕いて説明しなおしてくれたはとても有難かったです。
とても痛いと聞いていた硬膜外麻酔は、実は全く痛くなくて、恐ろしく上手な先生に当たったのか、
それとも陣痛が痛すぎて感じなかったのか、本当のところは定かではないのですが、
「ここで動いちゃだめよ、頑張って!」と励まされて、ど緊張したのに、痛みも無く、麻酔終了。
徐々に、痛みが引いてきて、20分くらいで、無条件で涙がこぼれるほどの痛みが、
すーーーーっと無くなりました。
そこからは、「ビバ麻酔」状態。
その後、先生がやって来て状態をチェックした後、破水させたらまた居なくなりました。
産婦人科医って、結局取り上げるところしかやらないんだなと、初めて知りました。

痛みが無くなって、相方と子供の名前について話し合ったり、
子供が生まれたらどっちに似てるかとか、そういう他愛も無いことを話して過ごしていました。
今、お産中である、ということがどっかに行ってしまいそうなくらいの穏やかさ。
ちょこちょこ経過を助産婦さんがチェックしに来てくれて、1時間に子宮口1cmずつ拡げるという与えられた課題は無事クリアして、
夕方4時半過ぎ、ビーチに居た義母がとんぼ返りで駆けつけてくれ、少し話をしてたら、
助産婦さんから
「子宮口最大に達したので、そろそろ出産体勢に入りますか?お母さんには居て貰いますか?出てもらいますか?」
と聞かれて、どうしたらいいんだかわからないので、「本人が立ち会いたいなら居て貰っても構わない」と言うと、
義母は、是非立ち会いたいと言ってくれ、何と相方が私の右足を持ち、義母が私の左足を持っての出産となりました(苦笑)

<出産記録>フライングか・・・前駆陣痛

<2012/4/17 の覚書>

3月から日本オフィスからトレーニングでいらしている素敵なPhDのお姉さまと、(大学卒業後アメリカに来て結婚→離婚後、一念発起して畑違いの心理学のマスターそしてPhDを取得して帰国して東京でクリニック立ち上げたという女性。ただただ尊敬)
アメリカ滞在中は相方不在の夜はディナーをご一緒したりしていたのですが、一時帰国に伴い中断していました。
数週間ぶりにこちらに戻ってらしたので、またディナーデートを再開。
臨月にもなるとお腹も重たいし赤ちゃんも下がってきて、今まですいすい歩き回っていたのに、
動作が見る見るあの妊婦さん特有の「ふんぞり返ったペンギンさん」歩きになったのを見て、「たった数週間で変わるものねぇ〜」と感心されたりしました。


この日は、私が産婦人科医(OBGYN)の予約があって、
午後半休を取ったので、お姉さまが中華のテイクアウトを我が家に持ってきて下さって、家でご飯を食べる事にしました。
ちなみに、産婦人科医のオフィスでは、新しい研修医といつものドクターと二人での診察で、
子宮底長37cm、内診で、子宮口が既に2-3cm開いていることも判明。
「これは結構すぐかも」(by 主治医)というので、
今後の出産プランについて再確認。
主治医からの提案は、
1.翌週月曜日までに、出産がなければ、その翌々日水曜日に陣痛を誘発させて出産させる(年齢+妊娠糖尿ボーダーというリスクを考慮して)
2.その前に出産があれば、もちろんそのまま産む。
3.予定日(30日)を超過することは避ける。

とのことでした。


その後、家に帰ると、何だかお腹と腰が重くてちょっと痛い感じがしてきたので、
昼寝をしてみたり、せっかく半休を取ったので、ぐーたら過ごしました。
寝て起きて、件のお姉さんと一緒にご飯を食べ、相方が帰ってくるまでおしゃべりしていると、
何だか生理痛の重めのような痛みが、7〜9分おきくらいに感じるようになり、
夜になると、おしるしらしき、微量の出血があったりもしたのですが、それがその日の内診による出血なのか、おしるしなのかイマイチはっきりせず、
その痛みが段々ひどくなり、5−6分おきという回数も増えて来たので、
深夜12時過ぎ、病院へ行ってみることにしました。
(痛みの間隔は、始まった時間をとりあえず書き留めていました。)


担当医のオフィスに電話を入れて、陣痛が来たので病院に向かう旨を伝え、
先週準備完了していた入院グッズのバッグを持って、
これまた先週取り付けたばかりのベビーシートをつけた私の車に乗り込み、
予定日より2週間も早いけど、でももう来てもおかしくないってドクターも丁度その日に行ってたわけだし・・・と思いつつ、病院へ向かいました。


産む病院は、産婦人科の通院時に、担当医が所属する病院(PとMから選べと言われた)から選んでオンラインで登録しておくようにと、
早い段階から指示されており、
私は、中国人の同僚が出産したというPという病院に去年の11月の段階で登録していました。
・・・が、病院に行って、私の登録は受理されていたのですが、何と私の担当医は、その病院ではお産を行わないということがここに来て判明!
何で、私が今までの通院時に、「病院決めましたか?」「はい、Pに決めました」という会話を何度と無くドクターとしていたというのに、
そのことを指摘してもらえなかったの??
大方忙しくて、ほとんど私の言ってる事も聞いてなかったんだろうけれど、これはひどい!と思いつつ、
痛みの中、私の頭の中で、「一体どういうこと?どうなるの?私は産めるの?」と一瞬パニックになる私。
でも、もう赤ちゃんは出てきたいと言ってるんだろうし、別に自分の診て貰っていたドクターに取り上げて貰わなくては!というほどの、
愛着も無かったので、赤ちゃん優先ということで、
「私のデータを取り寄せることが出来て、特にここで取り上げて貰うことに問題が無ければ、別のドクターでも構わない」
ということを告げ、とりあえず今の状況を確認してもらうことに。


結果は「偽陣痛(ブラクストン・ヒックス陣痛)」であったことが判明。子宮口も昼の段階からは変化が無かった為、
「この辺ぐるぐる回って歩いて、また戻ってくるか、今日は一回帰って、また本陣痛が来たら戻って着てもらうかになります。」
うそーーーー、この痛さで「偽」陣痛なのっ?!(とその時は思ったけれど、本物を味わった今なら、あれは偽陣痛だったなと納得)
と思ったけれど、しょうがないので、一度家に戻ることを選択。
家に着いたのが深夜2時半過ぎ。その頃には、偽陣痛は治まって来ていて(痛みの名残を感じているような感じ)とりあえず寝ることにしました。
今まで、想像の中でしかなかった出産がいきなり現実になった夜でした。
結果私にとっても、相方にはよい予行演習になりました(笑)