本当に英語漬けだと日本語を忘れるのか?

例え生活の95%を英語で過ごしていても、
時に一日一度も日本語を口にしない日があったとしても
私の思考の根底に流れているのは日本語で、
反射で英語を口走ることがあっても、私はやっぱり日本人だと思う。


よく「夢を英語で見れるようになると、かなり英語が染み付いてきた証拠」
と言われるが、私の体験から言えば、
英語を話す人が、夢の中に登場すれば、その人との会話は英語。
日本人が出てきたら日本語だ。
なので、私の夢は登場人物によって言葉が異なる。
しょうがないことなのだ。
私の中では、その人物が、日本語を話すわけがないし、
日本に居る家族や友人が夢に出てきて、
英語で私に話すわけがないのである。


それに、どんなに頑張ったところで、
私の心の隅々まで書き(言い)表すことが出来るのは、日本語。
これはどんなに英語が出来るようになっても変らないと思う。
確かに、英語で考える場合もある。
英語で受けている授業は、英語で考えるし、英語で覚える。
日本語にリンクさせることもあるけれど、
基本的にこの場合英語の頭になっている。
アメリカで新しくインプットされたこと、
というのは比較的英語で話しやすい。
一方、日本語でインプットされた情報というのは、
やはり日→英の翻訳プロセスを知らないうちに行っているような気がする。


ということで、例え今英語漬けの生活をしていても、
私は日本語を忘れてしまうことは無いと思う。
せいぜい、日本の芸能界のことや時事ネタに疎くなってしまって、
「日本語が」というより、
「日本の今時のこと」に不自由になってしまうことは、あるかもしれない。
ネットでいくら名前を見ていても、
波田陽区」の読み方が判らなかったり、
マツケンサンバ」をまだ見たことがなかったりする程度だ。


私の相方は日本語は、ほんの少ししか話さない。単語を並べるとか、
挨拶が少し出来る程度だ。
本当ならば、彼ももう少し日本語を勉強して、
私の心の機微を理解するほどになってもらわないと、
フェアじゃないなぁと思うこともあるのだが、
しょうがない。私達の関係は英語で成り立ってしまっているので、
彼には楽をさせてしまっている。
でも、私の「日本的思考から脳内翻訳された」英語に慣れてもらっているから、
おあいこということにしておこう。