公共の場所の使い方の違いについて

よくアメリカ人が、日本に来て驚くのは「道路がきれい。公共の場所もいつも清潔。」
(私に言わせれば、そうかな?これ、普通じゃない?ということでも)
ということです。
逆に言うと、アメリカに来た日本人のカルチャーショックの一つに、
「公共の場所が汚い!ゴミがあちこちに落ちている。」
というのも挙げられます。


アメリカ人って、自分の家はすごくきれいにしている人でも、
公共の場所では、床にごみ捨てても平気とか、
驚くのが、この辺の田舎のバーには、
フリーのピーナッツの樽(所謂お通しみたいなもの?)を置いてるバーがあるんですが、
そのピーナッツの殻をどこに捨てるかというと「床」だったりします。
屋内ですよ!
知らずに、うっかりその殻の山の上を歩くと、
「かさかさっ」
と、リスの寝床(って知らないけれど、雰囲気よ、雰囲気)のような
感触が足元にあったりするわけです。
ありえなーい!!!!


これはまぁ極端な例ですが、
学校内でも、ついこの前、授業に滑り込みセーフで飛び込んで、
いつもの席に座って、授業を受けてたら、
後方の席の子からメモが回ってきて
ジーンズに何かついてるよ〜」
・・・何?と思って、お尻の辺りを確認すると、
何と、ガムでした・・・・・。
心の中で、「おいっ、椅子にガムつけるってどういう神経してるんだよ!!」
と叫んでおりました・・・・・。
そういえば、北ペンシルバニアの超クラッシックな遊園地に行った時も、
ジェットコースター乗り場で並んでたら、
ひときわ目立つカラフルな柱があって、
「何でこれだけ、デコレーションが?」と思っていたら、
それは、おびただしい数のガムだった・・・ということもありましたっけ・・・・。
いいのか?それで???


ということで、公共の場所をきれいに使おうという概念は皆無に近いアメリカ。
何故なのか?と常々思っておりました。
そんな折、小栗左緒里さんの修行の本を読んでいたら、

こんな私も修行したい!精神道入門

こんな私も修行したい!精神道入門

座禅をされた時の体験談の中に、
厳しいお寺のお作法について書かれていました。
例えば、お粥を自分の分をよそったら、おたまの取っ手は次の人の方に向けて
お鍋を次に渡すというのがあったのですが、
お坊さんに「全ての動作は、次の人のことを考えてやるんだ!」
と、注意されていたのです。
これを読んで私は、
「これはとっても日本ならではな考え方よね。」
と思いました。
(ドアの開け閉めだけは除く。これはアメリカは習慣として、
次の人の為に開けてあげるのが徹底しています。)


またとある時、アメリカの学校では掃除の時間が無いという話になり、
日本では小学校から高校まで掃除の時間があると言うと、
物凄くびっくりされて、
「何で?何の為に?用務員や清掃係は雇わないの?」
と質問攻めにされたことがありました。
「掃除も教育の一環なんです。自分達の使った場所は自分達できれいにすることになってるんです。」
と答えたのですが、それまでこれが日本独特の事だとは知らなかったんです。
それで、色々ネットを見ていたら、
日本を紹介する記事の中に、日本の学校の掃除の時間についての説明があり、
「これは仏教の思想から由来している、日本独特の教育方針」
と書かれていて、そこで初めて小栗さんの座禅の作法の話がリンクしたんです。


元々、日本で長く生活に根付いた仏教の教えというのは、
「和が命!」「皆で助け合いの精神」があり、
仏教から派生した茶道の中にも
「共有することの喜び」や「おもてなしとは思い遣り」等、
全ては、人と人とが寄り添って生きていく為には、思いやりが必要、
自分だけでなく皆が心地よく過ごせるように、という気持ちが大事と教えられます。
キリスト教でも「汝の隣人を愛せよ」と言いますから、同じ精神があるとも言えますが、
でも仏教の博愛とキリスト教の博愛の概念は、少し違うように思えます。
キリスト教の教会は、ボランティアの心もとても大事にしているので、
見習うべき点もとても多いです。
でも一方で、ミッショナリー(布教)の話を聞くと、
キリストの教えを広めることに使命を感じているわけで、
世界制服とまではいかずとも、
野望めいたものが見え隠れするようにも見えます。
少なくとも現代の日本の仏教の布教活動というのは聞いた事がないので。
(カルトは別ですが。)
日本史を紐解くと、仏教の中でも色々な宗派による弾圧や
パワーゲームがあったのも事実なのですが、
もう何世紀も前の話なので、もう日本の仏教はその時期を過ぎたのでは?
と、私は勝手に思っています。
他の宗教についてはあまり知識が無いので、ここでは言及しません。
(一応、カソリック系の幼稚園に通ったのと、高校の世界史の授業の副読本として新約聖書は読んだことがあるのと、一応プロテスタントの牧師さんの司式の結婚式でオルガンを弾いたりしていたので、ちょっとだけキリスト教については知ってるつもり)



日本のしつけの中にも、
「次の人が気持ちよく使えるように」と言い聞かせることが
よくあると思います。
トイレの使い方なんかも、
「次の人が入った時、汚かったらその人が嫌な思いをするでしょう?」とか、
言い聞かされたこと、ありませんでしたか?
(私は、よく言われていました。)
アメリカじゃ多分無いと思います。
「きれいに使いなさい!」と教えることはあるかもしれないけれど、
「次の人の為に。」という教え方はしないと思います。
自分の家をきれいに飾ったり、芝をきれいに刈ったりするのは自分の為ですし、
公共の場所をきれいに使えないのは、自分が掃除するわけじゃないからです。
もし、アメリカでもドアの開け閉め同様に、
色んな事が「次に使うかもしれない見知らぬ人の為に」という概念があったならば、
もっと違っていたかもしれません。
また「汝の隣人を愛せよ」を、もっと掘り下げて考えるならば、
愛する人に嫌な思いをさせてはいけない」
という教え方は出来たのかも・・・と思ったり。


恥の概念や地域社会での暮らし方についても違うところがあります。
例えば、日本ではゴミ集積所に、
その日の回収の種類では無いゴミが置かれていたら
ご近所では大顰蹙、なんてことがよくあります。
持って行って貰えないですし、そのまま放置されたら野良猫やカラスにばらばらにされたりして、
ご近所に迷惑がかかることもあります。
「人様に迷惑かけてはいけない」と育っているので、
とっても恥ずかしいこととして受け止められると思います。
アメリカ人でも恥ずかしいと思う人はいるかもしれませんが、
人様に迷惑がかかるとまでは思う人は少ないように思えます。
(あくまで私見ですが)


コミュニティの作り方についても、
日本は村社会と呼ばれて、隣近所の人達が寄り合って、
住んでいる場所によって集っていたわけです。
町内会というシステムは、日本独特だと思います。
それに対し、アメリカというのは移民の国で
宗教色も様々なので、
コミュニティーは教会が中心になって出来る事が多いと聞きます。
つまり同じ宗教を持つ人達が集まって、
日本の町内会や子供会みたいなコミュニケーションをするわけです。
なので、ご近所づきあいもあるにはありますが、
「お隣ご近所に顔向けできないわ!」という恥ずかしがり方はあまり無いと思います。
むしろ教会で一緒の人に、恥ずかしいことを知られたら、
「どうしよう、もう教会に行けない!」などというリアクションが出ると思います。
そういう違いもあるということで・・・・。


と色々書き連ねて参りましたが、
こういう違いというのは、やはり文化と育ち方の差が大きいと思うんです。
私はちなみに無宗教なので、
よく言われる
「初詣は神社、お葬式とお墓参りはお寺、クリスマスも祝う」
のに何の抵抗も無い、典型的な日本人です。
「変だ!」と言われ様とも、
「日本には、八百万の神が居るから寛大なのよ」
と開き直ります(笑)
でも知らず知らずのうちに、様々な私の思考の底辺となる部分に、
仏教であったり、神道の教えが染み付いてたりすることに気づくと、
自分でも驚きます。


カルチャーショックというのは、
「自分が当たり前だと思っていた事が、異文化に入ることで、
それが実は当たり前ではなかった」ということに気づくことで、
そのことで更に自分のアイデンティティなるものを発見したりすることなのだと思います。


アメリカに来て、様々なカルチャーショックを受けていますが、
こういう「人種の坩堝」の中で暮らしていると、
あいだみつをじゃないですが、
「みんなちがってみんないい」
と、違うことにも寛大で居られる部分が増えてきます。
麻痺しているのとも違うのですが、
「あぁ、そういう人もいるよね〜。私は違うけれど」
というスタンスが出来てきます。
譲れない部分ももちろんあるし、生理的に受け付けないこともありますし、
良識の無い人に惑わされることも多いですが・・・。


私は学校を生徒に掃除させるっていい教育だと思います。
(当時はめんどくさかったですが)
アメリカの子供にもさせたら、もう少し公共の場をきれいにする意識が生まれるのでは?
と思いますし、せっかく「次の人の為にドアを開ける」が出来るのだから、
それを発展させることは出来ないのかな〜と思ったり。


長々とまとまり無く書いてしまいましたが、
脱線しつつも結論としては、
アメリカ人が公共の場をきれいに使う概念が乏しいのは、
実は、仏教的思想に基づく「次の人の為に」という概念や、
「自分の使った場所は自分できれいにする」という教育が
浸透していない為なのでは?」と推察しています・・・。


最後に、オチとして、
私は公共の場所をきれいに使おうとか、他人と共有する場所に関しては、
お掃除もマメなのですが、
いざ自分の領域に入ると、とてつもなく整理整頓が苦手です(苦笑)
いえ、不潔なのではなく、整頓が苦手(笑)
ある意味「ええかっこしい」なのですが、
うちの相方は、非常にこの感覚が信じられないそうです。
「まず自分の物、普通大事にしない?」
・・・はい、ごもっともでございます。
でも、やっぱり「共有空間が先(人に迷惑かけるかもしれないから)。自分のところは後回し」
って思ってしまうっていうのは、仏教っていうより性格??
(っていうか、言い訳だ、これは)