調べてみると色んなことが判る


私は結構なんでも調べてしまう性質なのだが、
今回は、自分に自信を持つこと、について、
ちょこちょこ調べている。
よく「自信を持つこと」=「幸せな人生」のようなことを見かける。
確かにその通りだと思う。
自己主張の国、アメリカに住んでみると、
物凄い自信の塊のような人が山ほどいる。
たとえ、ネガティブなコメントにも、
「私、駄目なの!絶対に駄目!」
・・・勝ち誇らんばかりのネガティブなりの主張がある。


今日本のニュースを見ていると、いじめで自殺する中学生の事件、
そしてそれに対する学校の対応についての論議が、
日々繰り返されている。


正直に告白すると、
私も小学校の頃、いじめを経験した人間である。
もういい年なので、その頃のことは
「まぁ、大した奴じゃなかったんだ」とか、
そういうなんらかのコンプレックスが、
私の向上心に繋がった、とポジティブに捉えられることも多い。
けれど、でも確実に私の性格に影響を及ぼしたことも
間違いではない。


そのままの自分を受け入れられなかった、という
あの絶望感や、
「一体何がいけなかったんだろう」と思い悩んだこと、
自分がかわいくないから、とか、
あの時、私が主張してしまったから、とか、
私がきっとだらしなかったんだ、とか、
自省する他に、猛烈に自分の存在を否定したことも事実だ。
幼い頃の私には、その受け入れてもらえなかったという、
猛烈な寂しさを上手く転換できなかったのだと思う。


多分、いじめた子達なんて、その頃のことは忘れ去ってしまっていると思う。
現に、中学校ではいじめた子達の何人かは、
私と一緒につるんでいた子もいた。
まるで何もなかったかのように。


多分、彼らにとっては半分冗談のつもりだったのかもしれない。
だから、多分、未だに私が心のどこかでそのことに頭をもたげている、
なんてことを知ったら、
きっとそんなの馬鹿げているし、冗談の判らない奴と思うのかもしれない。


偶然、街中で出会った時なども、
普通に話をする。
私も、もうその子達に対する恨みも無い。
これは本当である。


けれど、でもその自分の中に残った心の傷というのは、
一見、もうどこかに消え去っているように見えても、
何かの折に、ひょんなことから浮き上がってくるのである。
こうなると、もうこの傷を抱えて生きていくしかないんだな、と、
自分で割り切るくらいしか方法が見つからない。
もうそのいじめた子達対私ではなく、
自分の傷対自分になってしまっている。


私は、こと恋愛関係になると、著しく弱気になる傾向がある。
相手を尊重することと、自分を主張することのバランスが取れなくなる。
依存はしたくない、自分は自分であるべきだ、
と判っているのに、
でも相手を尊重することを考えると、それを上手く出したり引っ込めたり、
そういうことが上手に出来ない。
主張を小出しにすることも出来ない。
要は甘えべたなのである。


なのに、猛烈に甘えたい自分もいる。
でも拒絶された時の恐怖におののいて、
「絶対に甘えたらいけない」と蓋をするのである。


自分に自信がある人間というのは、
「私はこう思う」
「私はそれが嫌だ」
「私はこうだから幸せじゃない」
「私は幸せだ」
と、断定して物を言えると思う。


ところが、私はそこで、
湧き上がる感情を自分でセーブしてしまう。
例えば、
「そう思うことは私の我侭なんだ」
「これが幸せじゃないと感じてはいけない」
「相手は相手なりの事情があるんだ。」
それを続けるとどうなるのか?
自分が本当は何をしたいのか、判らなくなるのである。
調べてみると、こういう状況は、
「自分に自信が無い」状態らしい。
ありのままの自分を受け入れること、
それは決して楽なことでは無いのである。
こと、それを否定された経験を、流せずにいる場合、
それは、顕著に自分の行動に現れる。


自分を主張してなんぼのアメリカ人の中に暮らしていると、
色々話している中で、
「・・・であなたはどうしたいの?」
と、私個人の意見を尋ねられて、
黙りこくってしまう自分に気づき唖然とする。


最近、少しずつ自分の意見を自分の主張として
いえるようになってきているとはいえ、
自分に自信を持って生きるにはまだまだ程遠い気がする。


いじめは本当になくなって欲しい。
こんな思いを抱えて生きることは、
決して楽しいことではない。
もちろん自分を省みることは大事だし、
間違いを受け止めることも大切なことだ。
でも、私がいじめられた経験によって得たことは、
20年以上経った今でも、まだ心の中に残っているのも事実だ。


コンプレックスをばねにした時期もあったが、
それでも肝心要の心の中のことまでには至らない。
それは、私の弱さなのかもしれないが、
弱さごと引き受けてくれる人を思い焦がれるのは、
良いことではないような気もする。


もっと強くなりたい。
もっと賢くなりたい。


高みを見れば見るほど辛くなるのも本当だ。
そして、こういう思いは、
実は、「強くなって」「賢くなったら」一体何を得られるのか判っていない、
という「出口の無いトンネル」にいるような物で、
非常に空しいことでもあるのだ。


自分に自信を持つこと、まだまだ模索中である。