最近思うこと。

世の中色んな人がいると思うので、もちろん誰が正しいとか、
そういう話ではないと思うのだが、
たまに、やっぱり自分とは違う価値観を持っている人に行き会うと、
困惑することがあったりする。
もちろん、その人にはそれなりの考え方があって、
悪気があってのことではないと思うのだけど、
そういう人に限って、妙に自信満々に、
「これはこうあるべき!」
「そう考えない人はおかしい!」
という、非常に偏った物の見方をしてたりする。
誤解しないで欲しいのは、私はわりとそういう部分に大らかな方で、
人は人、私は私、というスタンスでやっていける方だと思っている。
でも、ごくたまに、そういう人の
いい意味での邪気の無さや、すごく狭い物の見方を、
ものすごい勢いでぶつけられると、
「いや、そう思う人ばかりではないでしょうに。」
と思ってしまうことがあったりする。
そういう人にとっては、
「自分が楽しい」=「みんなも楽しい」であって、
「自分がやりたい」=「みんなもやりたい」
「自分が正しい」=「みんなもそう思うべき」
と言い切る力みたいなものがある。
そのパワーに一気に押し捲られると、わたしのようなのんびりした人間は、
かなり困惑してしまうのも事実だ。


逆に、自分にはそういう「根拠の無い自信」みたいなもの、
いや、本人には根拠があるのかもしれないが、
もう少しシンプルに、「好き」か「嫌い」か、
とか、そういう価値観で行動するような奔放さみたいなものが、
欠けているのかな、と思うこともある。


まぁ、言ってしまえば、年を取ったってことなのかなぁとも思ったり。
感情のみで突っ走るとか、自分の基準だけで物を見るってことを、
しなくなったっていうのは、
ある意味、「無邪気さ」からは離れていってしまったということなのかもしれないし。


アメリカ人の多くはすごく自分の感情を優先するし、
それこそシンプルに「好き」か「嫌い」かという、
自分の意見が行動のすべてだったりする人が多い。
うちの相方は、わりと表面は「どうでもいい」と言うけれど、
ここぞという場面ではかなり頑固だ。
私はというと、結構色んな角度からの物の見方を考えて、
「あぁ、そういう風に考えていれば、つじつまがあうわな。」
と、一人で納得してしまう癖がある。
で、人の感情なんて変えられるものでもないんだから、
「そういう人なのね。」
と受け流す術を覚えてしまった。
そうなるとどうなるか?
自分の感情が一体どこにあるのか、時々わからなくなることがある。
これ好き?嫌い?
本当ははっきりとした答えがあるはずなのに、
その二者択一じゃ答えられなくなるのだ。


今受けている「神話学」の授業で、
天地創造神話の共通項の中に、「知恵を手に入れることで人間は苦しみを知ってしまった。」ということが挙げられている。
人間は賢くなることで、知らなくて良かったはずの悲しみや苦しみを知ってしまった、ということである。


じゃぁ知らないでおけばいいのか?
というと、私は多分その選択肢には至らないと思う。
何故ならば、苦しみを知ってこそ喜びの大きさも倍増すると思うから。
人の痛みの判る人間になるには、
その痛さを知らなくてはなれないと思うから。

なんだか堂々巡りになってきたけれど、
風邪っぴきで、少々へこんで、
色んなことに思いを巡らせてしまった。
でも、落ち込んでいるわけではないので、ご安心を。