見かけによらないらしい

人は見かけによらない、という言葉。
ある程度、容貌や言動などでタイプ分けというのが、
無意識に行われているとすると、
その予測に反した何かを人が持っている場合
こういう表現をする。


例えば、私が源氏物語が好き、なんてのは、
日本に居る頃に言ったものなら、
「え??」とクエスチョンマークが連発されたものだ。
当時、英会話を習っていたり、通訳のクラスを受けたり、
という生活をしていた頃、どうやら、
「英語かぶれ」している、というイメージがあったらしい。
実は、私は専門学校の卒業時に、
源氏物語の中に見える秘書的役割と現代社会への変遷」
というタイトルのレポートを書いた。
正直、今思えば、とても拙いレポートで、
もっとリサーチして、もっと面白く書けたのになぁと思う代物だが、
この話をすると、かなりの人に驚かれる。
「なんで?あなたが、源氏物語??」と。


実はこの休み、急に読み返したくなったのが、
この源氏物語なのだ。持って来ればよかったなぁ・・・。


源氏物語の面白さというのは、多くの人が取り上げているが、
何と言っても、現代にも通じる多種多様な女性像が1000年以上前に、
既に描かれていることである。
当時の風習や慣習の違いこそあれ、
究極のマザコンの源氏、
その母に瓜二つと呼ばれ、道無き隠れた恋に悩む父帝の後妻藤壺
そしてその藤壺に瓜二つと言われて、理想の女性に育てられる紫の上。
親友の姉、そして政略結婚ゆえに、源氏に素直になれない葵の上。
年下の男に夢中になってしまい、嫉妬にさいなまれる才女、六条御息所
政敵の娘で兄朱雀帝の元に遣える朧月夜
・・・・・などなど、挙げたらきりが無い。
(本当は、もっと書きたいのだが、本当にきりが無い)


そして、当時の仏教感も様々な形で表されている。
例えば、源氏が父帝の後妻である藤壺と密通し、
その結果、冷泉帝が生まれる。


その数十年後、もう源氏も自分の子供も独立し、
あとは、最愛の紫の上と、ゆっくりと老後を送ろうというその時、
兄朱雀帝の娘、女三宮が降嫁することになり、
紫の上との間に波風が立ってしまう。
その縁談を断れなかったのは、源氏の心の隙間に、
いつの間にか消えうせていたはずのマザコン魂が再燃したのか、
はたまた、ずっと潜んでいた六条御息所の怨念なのか
あさきゆめみしではこの解釈)
で、結局、紫の上を動揺させてまで迎えた女三宮は、
判りきっていたであろうに、幼く(源氏多分40〜50代、三宮10代である)
つまらないな〜と思っていたら、
何と、親友の息子で、自分の息子夕霧の親友、柏木に寝取られ、
しかも、三宮はその柏木の子を出産するのである。
ちなみに、その柏木の正妻である落葉の宮は、
源氏の息子、夕霧が熱を上げることとなり、
それまで真面目一遍堂で来た夕霧と、おしどり夫婦と呼ばれ、子沢山になった
初恋を実らせたはずの、雲居の雁の間に、
亀裂が入ったり。
とにかく、源氏の身辺は、この女三宮の降嫁によって、
思い描いた「静かな老後」から遠ざかるのである。


皮肉なことに、自分が数十年前、父にした仕打ちを、
自分が受けることになり、初めて、
「もしや、父帝は私のしたことを知っていたのではないのか?」
などと気づくのである。
そして、その三宮と柏木の間の不義の子、薫の代まで、
そのしがらみは続くのである・・・。
(私は個人的にはあんまり宇治のあたりの話は好きではないのだが)


もう、こうなるとアメリカのライフタイムなんて、
到底及びもしないほどのドラマである。
源氏は、「この世に類を見ないほどの美しさ」と賞され、
政治的手腕にも長け、当時の超エリート街道まっしぐら、
と描かれているにも関わらず、
この世界最古の長編文学の中では、「恋多き男」で、
「結局最後には、今までのツケが一気に来て幸せに終われなかった男」
として描かれている。(と、私は解釈している)


これを考察したら、本当に本が一冊書けてしまう。
(いや、もう実際何人もの大御所の作家が、このテーマについて書いている)
そして、こういう人は現代にも、しばし見受けられるし、
そう考えると、当時から考えると、
全く違う生活をしている現代だが、
人間の根底にあるもの自体は、
実はあまり変わっていないのではないか?
とすら、思えてしまう。


で、こんなことを書いている私は、
じゃぁ、さぞかし源氏通なんでしょうね、
と思われると困る。
何せ、古文が苦手だったので、
読んでいるのは、全部現代語訳で、
原文に行き着くにはまだまだ時間がかかる話なのである。


アメリカに居るのに、源氏物語の話を書くのは、
妙な気もするが、休みに入ると、
ふと、そんな日常と関係ない事に
思いを巡らせることもあるってことで。
(それって暇ってこと?)