日本語を教えたら、とんでもないことに・・・

昨日、「日本語教えて欲しい」と言われた韓国人の人に、
一応今日なら時間が少しあるので、教えてもいいと言っていたので、
カフェテリアに行き、その人と会う。
もう一人、韓国人の友達が後からちょろっと合流し、
わりと気晴らしになったのだが、
それを終え、さーて、帰るかなというところで、
会話の中で、「どこに住んでるの?誰かと一緒?」と聞かれ、
「え、ボーイフレンドと住んでる。」と言った途端、
「日本人?それとも他の国の人?」
とまぁ、普通の世間話をしていたのだが、
アメリカ人」と答えた瞬間、
「えぇ?そうなの。僕は嫌いだなぁ。そういうの。なんで?金持ちだから?」
という、発言が出た段階で、
「この人・・・ちょっと変??っていうか、判ってる?その意味?」と思った。
「そういうの、関係ないんじゃない??
言っておくけれど、別に私、生活に困って同居してるわけじゃないし。」
正直、こういう発言をする人って、自分の発する言葉の意味、
判ってないんじゃないかと思うことがある。
お金に困ってるから、リッチなアメリカ人にぶら下がってる、とでも
思ったのだろうか?人を馬鹿にするにもほどがある。
悪気は無いのかもしれないが、
私は時に、悪気が無いことほど罪なことはない、
と思うことがある。
大人に限って言えば、
悪気が無い=良かれと思ってやる、
ことが多いのだが、悪気が無い人に、
それが悪いことだと教えることほど、やっかいなことは無いのだ。
悪意を持って、その嫌なことをする人の方が、それを悪いと判っているだけ、
「なんでそんなことするのよ!」という言葉が通じるのだ。
子供ならば、何故それがいけないのか、教え諭すことが必要だが、
大人は、もう自分なりの観念や感覚が出来上がっているので、
それを諭すことは、結構大変。


もちろん、時に、「彼(彼女)だって悪気は無かったんだし」と思えることもある。
けれど今回の、この「金持ちだから?」発言は、
不快以外の何者でもないし、その人の価値観そのものを見るような発言だ。
正直、「じゃ、あなたはその人がお金持ちだっていう理由で、女の子と付き合うのね。」と切り替えしたい気持ちが沸いていたが、
よく知りもしない、興味の無い人と議論する気力もないので、
放っておくことにする。
「そういう人」というインプットを心の中でするだけだ。


次の瞬間、彼は私にキリスト教について説き始めた。
「私、クリスチャンじゃないから。それなりのことを知っているけれど、
知った上で、改宗する気ないから、私の事説得するなら無理。」
これは私の決まり文句である。
私の住んでる場所は、非常に宗教色の濃い場所なので、
しょっちゅう、こういう「非常に宗教心の強いタイプ」出くわすのである。
しかし、今日のこいつは結構しつこかった。
「ねぇ、君のこの髪も、僕の肌も、全部神様が作って下さったんだ。それを感謝しながら生きるって素晴らしいことだろう?」
「私、聖書も読んだことあるし、それなりに知ってるって言ったでしょ。私は、自分を信じて生きてるから、いいの。私のこと説得したいなら無駄だからやめた方がいいよ。」


とはいえ、私が聖書を読んだのは、「世界の名言集」のようなノリなので、
決してそこに、「神様との対話」やらを求めた訳ではない(笑)
一般常識の範囲なのだが。
高校の時、何故か全員聖書を渡された。
県立の普通高校だったのに。
多分、世界史教育の一環だったのかもしれない。
世界史の授業は、宗教抜きでは語れないからだ。
ちなみに、幼稚園は一応カトリック系。
園長先生はスイス人。
(初めてフルネームで覚えた外国人の名前は園長先生だった)
七五三には、何故か教会に皆で行き、
マリア様のメダルを頂いたのを覚えている。でも、手には千歳飴。
歯の詰め物がくっついて、取れてしまったのを覚えている。
(相変わらず、私の記憶はしょうもない。)
クリスマスの聖劇はキリストの生誕だったし、
サンタさんに扮した園長先生もかなりリアルだった・・・。
ということで、一応、私はいくつか聖歌も歌えるし、
聖書の言葉も小さい頃から聞いている。
ちなみに、実家は仏教。曾祖母の実家はお寺だ。
でも、私はぜーんぜん、宗教のしがらみも無く生きている。


私は決してクリスチャンである彼らを、
クリスチャンだから悪い人とは言わない。
彼らには彼らの道がある。私には私の道がある。
ただ、私も彼らを改宗させようと思わないから、
私のことも放っておいてくれ、
というのが本音だ。


今度、彼がまた私に同じ事を言ったら、縁を切りたいと思うだろう。
そういう意味では私の決断は早い。
その時、私は彼がクリスチャンだからではなく、
話が判らない奴だから、とは思うだろうけれど。